日本の素晴らしい教育・文化・食生活を
インドネシアの子どもたちに伝えたい
インドネシアの大学を卒業後、紡績会社に1年務め23歳で来日。静岡の国際ことば学院で2年間日本語を学び、その後、静岡大学大学院に進学し事業開発マネージメントを学んだプリヨさん。大学院卒業後に日本で就職活動を始め、就職説明会では企業側から「売上」「従業員数」「規模」を説明されることが多くピンと来なかったそうですが、知人から紹介されたヤタローの担当者からは「うちの会社は年齢を重ねた人たちが働いてくれている」と規模感よりも人に寄り添った話をしてくれたのが印象的でヤタローに就職を決めたそうです。入社10年目の現在では経営企画室のエースとして活躍しています。
「人を大切にする会社」でイスラム教徒のためのハラルに配慮したバームクーヘンの開発や海外展開の窓口として奮闘するフェルダウス・プリヨ・ハルトモさんにインドネシアの文化や日本での生活について伺いました。
インドネシアでの生活について聞かせてください
インドネシアの首都ジャカルタから車で6時間ほどの場所、中部ジャワ地方の「テガル」で生まれました。両親ともに教師という家庭で育ち、祖父母も教師だったことから代々、学校の先生という家庭で育ちました。子どもの頃から日本のアニメが大好きで毎週日曜日になると5歳下の妹とテレビのリモコンの取り合いでした。妹は「セーラームーン」を見るのが楽しみで、僕は「ドラえもん」が大好きで高校生になっても欠かさず見ていました。
ドラえもんを通して日本に対してどのような思いがありましたか
日本に留学に行きたいと思わせてくれた漫画でした。ドラえもんに出てくる風景が実際に日本にあるのかも知りたかったです。自分の人生を決めるうえで大切なきっかけとなりました。
高校卒業後からの進路について聞かせてください
高校卒業後は親元を離れ、西ジャワ州にあるバンドン市の大学で4年間事業開発マネージメントを学びました。新規事業に関する勉強や既存事業を拡大することについて知識を深めました。卒業後にすぐに日本に行きたいと考えていましたが、当時、インドネシアで日本留学が人気で留学ビザ発行まで1年かかりました。大学卒業後に紡績会社で働き、人とお金と機械を管理する仕事をしていました。勉強してきた知識を活かし、スーパーバイザーの地位でマネージメントに関わりました。紡績会社に通いながら週に1回、日本語の塾に通い勉強していました。半年で日本語が10%程度理解できるようになりました。
日本留学のビザが下りて、23歳の時に日本に来日したプリヨさん。静岡の日本語学校で日本語を2年学び卒業後は研究生として静岡大学の浜松キャンパスに通いました。静岡大学大学院への入学試験は4回目で合格し、2年間、事業開発マネージメントを学びました。大学院時代に声を掛けられて始めたラジオではインドネシアの生活や文化を紹介するコーナーを担当。大学院卒業後はラジオ時代にお世話になった方の紹介でヤタローに就職し、入社10年目になります。後半は日本での生活や仕事について伺います。
23歳で来日し、静岡市の語学学校に通いはじめましたが日本はイメージ通りでしたでしょうか
ドラえもんで見ていた世界が広がっていた気がします。家の形や人々の話すジョークなど。人が優しくてとてもいい印象でした。
日本語の習得は順調でしたか
語学学校で学んで20%程度理解できるようになりましたが日常生活ではまだまだ苦労することが多かったです。大学院で色んな人と出会いコミュニケーションをとることで日本語の上達が加速しました。テレビやニュース、新聞など日本語に触れる機会が多ければ多いほど吸収も早くなり、理解する力が上がっていきました。
大学院卒業後にヤタローに就職したきっかけと理由を聞かせてださい
色んな会社の説明会に行きました。どの会社も素晴らしいところばかりでしたが、その会社のために働いてみたいという思いにはなりませんでした。そんな時、大学院時代に出演していたラジオが縁で、知人にヤタローを紹介されました。人を大切にする会社で自分のポリシーにあっていると感じたため入社を決めました。会長をはじめ皆さんに良くしていただいています。
ヤタローではどんな仕事をされていますか
イスラム教徒が食べられる「ハラル認証」を取得したバウムクーヘンの開発に携わり、現在「FUJISAN KUE LAPIS」という名前で販売しています。芳醇なスパイスの香りもお楽しみいただけるバウムクーヘンです。その他に、海外からのお客様の通訳や、インドネシアヤタローの運営フォローなど多岐にわたります。かつてヤタローが世界進出していた地域にもう一度会社を立ち上げる働きかけなど、世界とヤタローをつなげる仕事もしています。
仕事以外の活動として留学生の相談相手をされているそうですね
国が違うと文化が違います。イスラム教徒は豚肉とお酒を禁じられているため、来日当初はハラル食を探すのに苦労しました。言語にも苦労した経験があるため、留学生たちが暮らしで困らないように日本のルールやマナーを始め、悩み相談などにものりサポートしています。自分自身の経験を話すことで留学生が安心して浜松で暮らせるならとメンター(浜松市外国人留学生等の就労・起業促進メンター)を引き受け活動しています。
浜松での暮らしはいかがですか
浜松は山、川、湖があり、自然と都会が融合されていて住みやすいです。4人の子どもがいますが、釣りをしたり、川遊びをしたり、のびのびと育てられる環境です。社会保障の面で日本は、出産手当、児童手当、保険制度が充実していて素晴らしいと思います。インドネシアにも保険制度がありますが、一部の病院でしか適応されません。インドネシアに一時帰国していた時に子どもが病院にかかったことがありますが、保険に入っているにも関わらず、保険適応の病院ではなかったため、莫大な金額を請求されたことがあります。子どもに適切な医療を受けさせることができる日本は素晴らしいと思います。
インドネシア出身だからこそ日本の子育て環境に思うところがあるそうですね
インドネシアでは月に1万円払うことができる家庭は家事全般を引き受けてくれるメイドさんを雇うことができます。子育て中のお母さんたちにとってメイドさんは強い味方です。日本は「子育てに関することは自分たちでやる」という風習がありますが、夫婦の負担がものすごく大きいと感じています。個人的意見ですが、海外からのメイドさんを受け入れる家事使用人のビザの発給があれば、日本の夫婦の負担が軽減されて出生率も上がるような気がします。
これからについて聞かせてください
インドネシアは1年間暑い国で四季がありません。暑い国なので種を蒔けば最低限の食料が手に入る生活ができると考えている人が多く真面目に働くという意識が低いかもしれません。時間にルーズ、約束を守らない・・・などが当たり前になっています。ルールや約束を守るなど、子どもの頃から当たり前のように教育できる環境になるような働きかけをしていきたいと思います。そして食事面でも子どもの頃からサポートできたらと思います。インドネシアは暑い国で食材を殺菌する意味もあり食べを高温で揚げる料理が多く、若い頃からコレステロール値が高く病気になる子もいます。平均寿命が60歳と言われているインドネシアの食生活を日本のように良いものにしていきたいと思います。
日本の素晴らしい食文化をはじめ、礼儀、教育などインドネシアの子どもたちの未来のために橋渡しができたらと思います。
今後の活躍も楽しみにしています。本日はありがとうございました。
(取材時期:2023年11月)
フェルダウス・プリヨ・ハルトモさん
1984年生まれ
インドネシア テガル出身
23歳で来日
静岡大学 大学院卒業
洋菓子やパンの製造を手がけるヤタローに就職し、現在は経営企画室でハラル商品などの開発に携わる
現在39歳・4児の父親