浜松の外国籍住民の受け入れの歴史
(以下の文章は、全体の概要を分かりやすく簡単にまとめたものです。あくまでも大きな流れをつかむための一つの参考としてご理解ください。2021年11月末日)
1908年~
日本人がブラジルに移民
1908年、国の施策で日本人がブラジルへの移住を開始しました。コーヒー農園などで働き、次第に日本人集団地を形成していきました。
最初に移民した人は日系1世、その子どもは日系2世、さらにその子どもは日系3世となり、現在ブラジルでは約190万人の日系人が住むといわれています。
<もっとくわしく知りたい方はこちら>
【ブラジル移民の100年】https://www.ndl.go.jp/brasil/ (国立国会図書館ウェブサイト)
1980年代のバブル景気による人手不足
1980年代の日本では、いわゆるバブル景気で製造業を中心に単純労働力の人手不足が深刻化しました。しかし、日本政府は外国人労働者の単純労働者の受入を認めませんでした。そこで、東南アジア、南アジア、中東諸国から、単身男性が観光と称して来日し、人手不足の製造業現場で働き、資格外就労やオーバーステイとなるケースが多く見られました。
経済界が外国人労働者の受入を強く希望するという背景もあり、1990年に出入国管理及び難民認定法(以下、入管法)が改正され、日系3世が「定住者」という新設された在留資格で活動の制限がなく日本に在留できるようになりました。活動に制限がないということは、就労に制限はないということです。またこの時期、ちょうどブラジルではハイパー・インフレが続き深刻な経済危機に直面していました。このように、日本側の要因とブラジル側の要因が重なり合い、主にブラジルを中心とする南米諸国から日系人が日本に「デカセギ」に来るようになりました。
浜松市におけるブラジル人の増加
浜松市には、世界的に有名な自動車やオートバイ、楽器メーカーの大工場やその下請けの中小零細企業が多く、工場での働き手を多く必要としていました。もともと、このような製造業の工場では、1950年代半ばから1970年代前半までの日本の高度成長期には全国の農村から働き手を募集してきたのですが、日本国内での働き手が不足したこともあり、海外から働き手をあてにするようになったのです。このようにして、浜松市のものづくり産業は日系ブラジル人やペルー人などにより支えられてきました。
定住化が進む
当初は、「デカセギ」として数年働いたら母国に帰国するつもりだったり、日本と母国を行ったり来たりしながら生活していたりした日系人ですが、日本での生活の通算年数が長くなり、結婚して子どもが生まれ、家族ができると生活費もかかるようになり、生活の基盤も日本にできるなど日本での生活が長期化していきました。
そのような中、2008年のいわゆるリーマンショックによる経済危機により、多くの人が失業する事態となりました。日系人の多くが派遣会社や請負会社などで非正規雇用として働いていたためです。これを機に、日本政府の帰国支援を利用して帰国した人もいましたが、子どもの教育の継続などの理由で逆に日本での永住を選択した人もいました。
第二世代の活躍と高齢化の課題
日本への永住を選択した家族では、日本で生まれたり育ったりして日本で教育を受けた第二世代が大人になり、働くようになっていきました。日本と母国を行ったり来たりするなど教育環境が安定していなかったり、日本での教育環境が整備されていなかったりするなど、第二世代の教育をめぐる環境は厳しいものがありますが、その中でも自己実現を果たしていく第二世代の若者たちも出てきています。一方、親世代は高齢化が進み、年金や介護の問題が出始めています。
多国籍化と技能実習生の増加
2016年頃から、フィリピン人の増加が見られるようになってきましたが、この頃に増えたのは日系のフィリピン人たちです。また、全国的に技能実習生の増加が顕著になってきていますが、浜松市においても、ベトナムやインドネシアなど東南アジアから技能実習生として来日する単身の若者たちが増加しています。
2019年に「特定技能」の在留資格が新設された影響は全国的にも浜松市においてもまだ大きく表れてはいませんが、今後は、技能実習生や特定技能などの在留資格で滞在する外国人市民がますます増えることが予想されます。
参考文献
『ブラジル人と国際化する地域社会~居住・教育・医療』池上重弘編著(2001年、明石書店)
『顔の見えない定住化~日系ブラジル人と国家・史上・移民ネットワーク』梶田高道、丹野清人、樋口直人著(2005年、名古屋大学出版会)
外国人住民数
人数・国籍数
最新の外国人住民数はこちらのページをご覧ください。
このページに関するお問い合わせ
電話:053-458-2170 / メール:info@hi-hice.jp