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HICE NEWS

2015年4月号よりHICE NEWSが全面フルカラーへと一新しました。日本語にルビをふり、部分的に英語とポルトガル語を併記しています。 英語、ポルトガル語の詳しい情報についてはホームページ、Facebookなどをさらに充実させていきますので、そちらをご利用ください。 年2回(9月と3月)はトピックスなども盛り込んだ特集号を発行しますのでお楽しみに!

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バックナンバー

HICE NEWS (2017.06)

新聞記事からHICE35周年を振り返る①(1985年)

現在、HICE設立35周年記念事業の準備として、HICEに保存してある過去の新聞記事を読み直しています。 今回は、その中から、1985年3月4日の記事をご紹介いたします。

 浜松に定住するベトナム難民二組の結婚披露宴が三日、浜松市鍛冶町の西武浜松店、シティ8で行われた。 二日から四日まで開かれている「国際交流フェア’85」の”国際村芸能祭”の行事の一つで、約二百人の市民、ベトナム人らが祝福に駆けつけた。 民族衣装などで身を包んだ二組のカップルは熱い祝福に戸惑いながらも「最高に幸せです」とさわやかな笑顔を見せた。(静岡新聞、昭和60年(1985年)3月4日)
 
記事には二組のベトナム難民のカップルの写真が掲載されていて、そのうちの一人が静岡県ベトナム人協会会長の山田明(トラン・バン・ミン)さんです。 ミンさんには、2年前のグローバルフェアホールイベント「写真で語る私の歴史」で、ご自身の難民としての経験を語っていただいたことがあります。1981年に小船でベトナムを脱出したミンさんは、台風の荒波に流され3日間漂流し、5日目に奇跡的にイギリスのタンカー船に救助されたそうです。 発表で見せてくださったタンカー船での写真には安心した顔のミンさん達が写っていて、胸にぐっとくるものがあったのを覚えています。 ミンさんはその後、難民として日本に来られ、難民受入施設で日本語や日本文化を学んだ後、浜松で就職をしたそうです。
 浜松市は全国的にみてもベトナム人が多く住むまちです。 その多くは難民として来日された方々ですが、仕事が豊富にあり、温暖な気候で過ごしやすいだけでなく、難民を受入れる温かい市民の存在があったことが浜松に定住するきっかけとなったと、ミンさんはおっしゃっていました。 改めて今回、当時のHICEがその一助となっていたことにうれしく思います。
 ベトナム難民の当時の様子や30年以上に亘る日本での生活について、ミンさんにもっと詳しく話をお聞きし記念誌に掲載できればと思います。 お楽しみに!

HICE NEWS (2017.05)

【HICE設立35周年記念事業】第1回ミーティングを行いました!

先日、HICE設立35周年記念事業第1回全体ミーティングを行いました。
 最初に記念事業の趣旨説明を行い、今年がHICE設立35周年の記念年であること、それを祝して記念事業(記念誌作成と記念イベント)を行うこと、イベントは2月のグローバルフェアで行うことを確認しました。
 次に、グループごとにどんな記念誌にすれば良いかの話し合いを行いました。 初めに決めることとして、「誰に手にとってもらいたいか」「言語はどうするか」「内容はどうするか」「媒体形式はどうするか」等の冊子の大枠について話しました。
 話し合いでは、将来の浜松市を担う中学生~高校生に読んでもらいたい、HICEのことがまだまだ知られていないのでできるだけ多くの人に届けたい、これまでお世話になった関係団体の方々に手にとってもらいたい、HICEは外国人と共に歩んできたのだから外国人の方々にはぜひ読んでもらいたいなど様々な意見がでました。 将来を担う若い世代に多文化共生についてっと関心をもってもらいたいということから、学校で使う教材の位置づけになるような内容にしたらどうかという案もあがりました。
 また、記念誌の主要言語をどうしたらよいかということについても話し合いました。 多言語併記がよいのではないか、言語ごとにそれぞれ違う特集を作ったらどうか、やさしい日本語にしてさらに漢字にはふりがな付きがよいのではないか等、多言語・多文化
なスタッフが集まるHICEならではの意見が集まりました。 今後も対話を続けながらより良いものを作りたいと思います。 皆で、様々な意見を出し合った結果は完成した記念誌でご確認くださいね!

HICE NEWS (2017.04)

今年はHICE設立35周年記念Yearです! 

HICEは、1982年(昭和57年)12月17日に、草の根国際交流を目指した任意団体として設立されました。 また、国内の経済成長を背景に、当時進められていた姉妹都市交流だけではなく世界中の民族・文化と交流をし、それらを推進するために市民の知恵と力を結集させることも設立の目的として掲げられていました。
 設立時は、「国際社会に開かれた浜松づくり」を目標として、ずいぶん盛りだくさんのグローバルなふれあい事業が行われたようですが、いずれもボランティアの方々のご支援ご協力があったからこそと当時の記録に残っています。「 草の根」「ボランティア」「グローバル」「ふれあい」というキーワードが、当時から今まで変わりなくHICEに受け継がれているのがわかり感慨もひとしおです。
 さて、HICEは皆様のおかげをもちまして、今年、設立35周年を迎えることになりました。 このことを記念し、HICE設立35周年記念事業を行うのですが、そのうちの一つに記念誌作成事業があります。 記念誌といっても、HICEの事業を単に振り返る記録誌に留まることなく、外国人集住都市としての浜松市の変遷や、外国人住民と共に発展してきた浜松市ならではの特徴(経済、教育、ポップカルチャーなど)、外国人住民のライフヒストリーや、HICEを支えてくださったボランティアさんへのインタビューなど、1年をかけて取材や調査を行い、この1冊で浜松市の多文化共生のあゆみ
(過去~現在~未来)がわかるような内容にしたいと考えています。 内容は、毎月開催するスタッフ全員会議で検討していきます。
 今年度このコーナーでは、記念事業の進み具合や取材を通じてわかった貴重な情報等を随時ご報告します。 こんな内容を載せて! というアイデアや、取材や写真の貸与にご協力いただける方も募集していく予定です。

HICE NEWS (2017.03)

交通に関する法律と習慣 ~アメリカとの違い~

浜松で友達と一緒に道を歩いていたとき、車が交差点でUターンしてい
るのを見ました。 アメリカでは道路でUターンする事は珍しいので、日本で気づいた車に関するアメリカとの違いについて、今月の記事にしました。

 アメリカで運転する時に一番難しいこと、それは州や準州ごとに、交通法が異なり、郡や市によっても交通法が異なることです。 一番極端な例はおそらく、アメリカ領ヴァージン諸島の交通法で、アメリカで一般的である右側通行と違って、左側通行と決められていることです。 このほか、過去にモンタナ州では数値ではなく「妥当で慎重」という制限速度があったことや、ハワイ州の時速60マイル(97キロ)からテキサス州の一部で決められている時
速85マイル(137キロ)まで、州ごとに制限速度が大きく異なります。
特に、Uターンや赤信号での右折(日本では左折)等、あまり使われていない運転操作も地域により法律が異なることも多いので注意が必要です。
アメリカで13年運転してきて、道路でUターンをした回数は1~2回くらいで、他の人がUターンをすることを見たのもわずかですので、誰かがUターンをするとちょっとびっくりします。 アメリカ
では道路で反転する必要がないわけではなく、反転したいときは、Uターン以外の方法を選びます。 何故かというと、その方がもっと安全だからです。
Uターン自体が危険というより、アメリカでは珍しいから他の運転手がどういう風に反応するかわかりませんので、Uターンしないことが転ばぬ先の杖となります。 もう一つの理由はもちろん法律の違いです。 Uターンを認める標識看板がない限り、Uターンができないと判断した方が無難ということです。

 日本での交通に関する法律や習慣に慣れていないところがまだ多いので、どうしてこのように習慣が違うのか是非知りたいです。

(国際交流員:CIR スティーブン・サワディセービ)

HICE NEWS (2017.02)

ビアトリクス・ポター

イギリスの子ども向けの本は世界中で有名です。 人気の「ピーターラビット」をはじめとした多数の本を書いたのは、イギリスの作家、ビアトリクス・ポターでした。 典型的なイングランドの自然を描いていることがその話の魅力の一部で、昔から親しまれています。 2016年はポター生誕150周年でした。

 ポターは1866年にイギリスの裕福な家に生まれました。 よく家族旅行でスコットランドや湖水地方に出かけたことから、幼いころから自然が大好きでした。 ハリネズミやコウモリといった珍しいペットを含め小さな動物をたくさん飼い、細かく観察したり描いたりしていました。 当時の上流階級の例にもれず、家庭教師から教育を受けポターの青春時代は自然と勉強で満たされていました。

果を提出することはできませんでした。
 ポターの本は実は、元家庭教師の子どもに向けて書かれていた手紙として始まりました。 その手紙の一つを「ピーターラビット」という本にしてみました。 最初は自費で家族や友人のためだけに出版しましたが、やっと出版に賛同する会社を見つけ、1902年に「ピーターラビット」が出版され、すぐ大ヒットとなりました。 その後、ポターは20冊以上本を書きました。

 ポターは自分の農場を買い、1912年に結婚し、農作業と執筆を楽しみながら、幸せな田舎暮らしを一生続けました。 1943年に亡くなったとき、土地をすべてイギリスの環境保護団体ナショナル・トラストに寄付し、自然環境の保全と美しい景観や伝統的文化の保持に大きな貢献をしました。 今でも、農場はそのままの姿で保存されており、年に何千人もの観光客が訪れ、ポターの本は世界中で愛されています。

(国際交流員:CIR エレン・ミッチェル)
※CIRニュース 2016.2より抜粋

HICE NEWS (2016.12)

ヨーロッパのクリスマス

12月といえば、クリスマスですね! サンタが待ちどおしい子どもはたくさんいると思いますが、ヨーロッパではプレゼントを届けてくれる人は国によって違います。 世界で親しまれている「サンタ・クロース」はアメリカへ渡った移民たちがヨーロッパから持ち込んだ各国のクリスマスの伝統が融合したものです。
 イギリスにはファーザー・クリスマスがいます。 クリスマスに反対する声のあった時代にクリスマスを優しく楽しげなお爺さんに擬人化する事によって、クリスマスが続けるべき伝統であることを訴えたことにより定着しました。 ビクトリア時代(19世紀後半)以降は、子どもにプレゼントをあげる、現代の形になってきました。
 ロシアなどスラブ民族の国では、ジェド・モロース、訳して霜おじいさんがいます。 スネグーラチカ、雪の娘という名前の孫も付き添っています。 彼女の由来は違う民話にありますが、なぜかジェド・モロースの付き添いとして知られるようになりました。
 フィンランドでは、プレゼントを持ってくるのはヨウルプッキ、文字通りに訳すと「クリスマス・ヤギ」です。 スカンジナビアでは、何千年も前からクリスマスにお祝いされてきたのはヤギでした。段々現代のお爺さんの姿になりましたが、名前はそのまま残りました。
 アイスランドではプレゼントを持ってくるのはヨゥラスヴェイナル、13人のクリスマス少年たちです。 クリスマスの前、一日に一人ずつ訪れ、一年間の行いによって子どもにプレゼントか罰を与えます。 もともとはいたずらっ子で、例えば、扉をうるさく閉める者、ソーセージを盗む者などの名前がついています。
 ヨーロッパでプレゼントを持ってくる者の原点となったのは実在したニコラス聖人で、人助けをしていた逸話があります。 おもしろいのは彼には悪い子に罰を与える「悪い」付き添いが各国にいることです。
 オーストリアでは、獣のクランプスが罰を担当する付き添いです。 同様に、ドイツではクネヒト・ループレヒト、フランスではペール・フッターが、悪い子に石炭を与えるか、子どもを持ち去るか、または鞭を打ちます。
 クリスマスの伝説はこれ以上にもっと多くあります。 ただ、多くの伝説の中で共通点が一つあります。 良い行いをすれば、報われるという事です。 皆様、今年はどうでしたか?最後に、私たちからも、メリークリスマス!

(国際交流員:CIR エレン・ミッチェル)

HICE NEWS (2016.11)

危険? でもやっぱり超お得! ブラックフライデー

ブラックフライデーは11月の第4木曜日の感謝祭の翌日にやってくるクリスマスシーズン最初の大売り出しをする日です。 小売店が年初めから赤字営業を続けても、その日になってようやく繁盛し黒字になるということから、ブラック(黒)フライデー(金曜日)という名前になったと一般的に言われていますが、実際に名前をつけたのは1960年代のフィラデルフィアの警察で、その理由はその時にとてもひどい交通渋滞があったからです。
赤字から黒字へという説は1980年代に、その日をもっとポジティブなイメージにするため、小売店が新しく作ったものです。
 ブラックフライデーはアメリカで最大の繁忙日です。
なぜかというと、クリスマスのショッピングシーズンの始まりで、しかも大型店の多くが「ドアバスター」という超特価商品を販売するからです。 ドアバスターは格安のディスカウント商品で、大変人気があり、数が非常に限られています。そのため、ドアバスターを手に入れる戦いには危険が伴います。
残念ながら、ブラックフライデーには、ドアバスターを買うための競い合いにより、殴られたり、催涙スプレーで攻撃されたり、踏み潰されたり、極端な場合は銃で撃たれるなど、色々な方法で怪我をする負傷者が出ることがあります。 このように書くと恐ろしい日のように思われるかもしれませんが、怪我人や死者が出る程の事件は稀なことですので、ご安心ください。
開店後しばらく待てば、心配なく買い物ができます。 無理してドアバスター商品を手に入れなくても、他の商品はまだセール中ですし、人ごみがなくなってからの方が安全です。
 ブラックフライデーは安いものがたくさん買える大きな買い物のチャンスです。 けれども、ブラックフライデーの日は、ドアバスターがあって危険を伴います。 しばらく待ってから買い物に行くことをお薦めします。 これさえ覚えておけば、その日のショッピングは問題なく、安心して楽しめますよ!

(国際交流員:CIR スティーブン・サワディセービ)

HICE NEWS (2016.10)

イギリスの森

 私の一番好きな季節、秋がまためぐってきました。 この時期になると、イギリスの秋を思い出
します。 家族でよく散歩に出かけた家の近くの森は、この時期が特にきれいです。 森はイギリスの田舎の最も重要で独特な生態系の一つです。
 イギリス諸島は大昔、ほとんどが森林に覆われていました。 約6千年前に農業が導入されてから、景色が大きく変わりました。 人口が増えるにつれて、農業に必要な土地が増え、数千年をかけて、森林は諸島のわずか10%となりました。
 少ないながらも森林が残ったのは、経済活動に役立つからでした。 農業に向いていない地域では、時にはたきぎや建築材料に、時には豚などの家畜や狩猟用の鹿がエサを食べるところとして利用されました。 こういった活動がイギリスの森林を独特な森にしたのです。
 材木を取るために用いられた森林管理方法は萌芽更新
(※)でした。 この方法では、木を成長させ、そして枝を切り落とす過程を繰り返します。 イギリスのもっとも象徴的な野生生物のいくつか(ハリネズミやヨーロッパコマドリなど)がこういった森林によって生かされているのです。
 しかし、この伝統的な方法が産業革命でほとんど終わりを迎えました。 新しい開発のために大規模な森林破壊が行われたり、人々が森林を放置し都会へ出て行ったりしました。 新しい木も植えたものの、これらはほとんど野生生物が暮らせない外来種の木だったため、昔の森林はほぼ破壊されてしまいました。 残った森林でも、新しく導入された外来種によって在来種が駆逐されてしまいました。
萌芽更新の管理を続ける人もいないことから、光が十分入らない生い茂った森林では野生生物が生存できませんでした。
 しかし、イギリスの未来が真っ暗だというわけではありません。 人々は徐々に森林の大切さや独特さに気づき、現在では積極的に保護や復活に取り組んでいます。 わたしの実家の近くの森も実はその例の一つで、鳥の保護を行う慈善団体が所有する自然保護区です。 またいつか、秋にこの森を散歩できたらと思います。

(国際交流員:CIR エレン・ミッチェル)

(※)樹木を伐採し、その切り株や木の根元から枝を延ばして樹木を育成すること。

HICE NEWS (2016.09)

HICE NEWS (2016.08)

イギリスの国民投票

最近イギリスでは世界中の注目を集めた国民投票が行われました。 そもそも、国民投票は今までにどのくらい行われているのでしょうか。 日本では特に存在感が薄いかもしれませんが、イギリスでもまれなことです。
イギリス全国の国民投票は今まで3つしかありません。 第一回は1973年に、欧州諸共同体(EC)に残るかどうかについて行われ、残ることになりました。 第二回は、2011年に投票制の変更について行われました。結果、従来の投票制に変わりはありませんでした。 そして第三回は、先月に行われた欧州連合(EU)の離脱に関する国民投票でしたが、結果、離脱することになりました。ここ数年イギリスでの国民投票の頻繁さは異例です。
過程としては、まず両陣営が主張を国民に伝えようとします。投票日が近づいたら、ますます拍車がかかります。 2011年の国民投票は、あまり注目されませんでしたが、今回の国民投票には人口の72%が投票しました。前年の総合選挙の投票率が66%だったことと比べても、高い投票率だといえるでしょう。

では、イギリスで投票するのにはどうすればいいでしょうか。
投票権を持つ人々は18歳以上です。 そしてイギリス国籍を持つ人はもちろんですが、イギリス国籍以外の人たちも投票できる場合もあります。 英連邦加盟国又はアイルランドに国籍を持つイギリス在住の人なら、どの選挙でも投票できます。 日本では、日本国籍を持っている人しか投票できないので、ちょっと不思議に思えるかもしれませんが、例えば英連邦の人(カナダ、ジャマイカなど53ヶ国)であれば、実は法律上では「外国人」ではありません! さらに、イギリス国籍を持っている人は海外在住が15年未満であれば、投票できます。 郵便で投票用紙を送ってもらってから指定の封筒で送り返
す方法と、代理を指名し当日に代わりに行ってもらう方法があります。
今回の国民投票も、私も日本から郵便で、貴重な一票を投票することができました。

(国際交流員:CIR エレン・ミッチェル)

HICE NEWS (2016.07)

アメリカの独立記念日の祝い方

「我々は戦わずして、滅びはしない。 我々は勝利し、生存し続ける。 今日こそが、我々の独立記念日なのだ。」 これは、ホイットモア大統領が7月4日に演説したアメリカの独立記念日の一番有名なスピーチの締めです。 実は、このスピーチはアメリカ独立戦争のものではなく、独立記念日に良く観られる映画「インデペンデンス・デイ」からのものです。 独立記念日の楽しみ方の一つとして、その日にこの映画を観る人も多いです。
しかし、一番代表的な祝い方はバーベキューと花火です。
バーベキューはかなり人気で、家の庭か近くの公園でバーベキューをやっている人をよく見かけます。 自分でバーベキューができなくても、同僚や友達のバーベキュー・パーティーに参加することができます。 その場合、パーティーの食材や飲み物等の一部を持ってくるようにお願いさそして夜は花火大会です。 花火のショーはどこでもあり、自分で買った花火を家で楽しむ人も多いです。 とはいえ、州または市町村によって、花火に関する法律は異なり、一般の人は花火が全く買えない、使えない、というところもあります。 こっそり他の州から花火を買って使う人もいますが、法律上では認められていないので、近くの花火ショーに行くことをお勧めします。
他に、パレードもありますが、個人的な祝い方としては、国旗を飾ることも人気です。 私もそのために国旗を持っています。 最近はあまりお祝いをしていませんでしたが、今年、久しぶりに国旗を飾ってみようかと思っています。

(国際交流員:CIR スティーブン・ザワディセービ)


© 2014 S Pakhrin

HICE NEWS (2016.06)

イギリス王室への複雑な気持ち

日本に来たとき、イギリス人として、日本でのイギリス王室の人気に驚きました。 イギリスでは、王室に対する気持ちはもっと複雑です。 確かに、最近は王室の結婚、出産、即位60周年などイベントが連続し、国内でも王室の人気がピークにあります。 しかし人気が落ちることもあり、反対派も常にいます。「 連合王国」がいつか「連合共和国」になる日は来るのでしょうか…?
実は、イギリスは既に一度共和国になったことがあるのです。 1640年代から、王と議会の間の戦争がありました。 議会が勝ち、王であるにもかかわらず反逆罪で処刑されました。
しかし、共和国は11年しか続きませんでした。 その後、追放された王室を再び呼び招きました。
時代の君主によって、王室のイメージが大きく変わります。 今の女王、エリザベス2世は個人の人として比較的人気が高い方です。
しかし世論調査ではここ数十年安定して19%の人が共和国を求め続け、共和国の実現を目的とする最も大きい圧力団体のメンバーが3万人以上もいます。 どうしてでしょうか。
共和国主義の理念は経済的でも思想的でもあります。
王室に大きな費用が掛かるし、生まれた立場だけで権力をもらうことに対して反対だそうです。 しかし内戦の時代のように、君主制主義者と共和主義者には別れていません。 ますます力を集めている第3の立場は、無関心な人々です。 個人的に、私自身もこのグループに入るだろうと思います。
けれども、現在の女王が女王になってから60年が経ち90歳になりました。 ほとんどの人にとって、彼女は当たり前の存在です。 もしかしたら女王が亡くなられたときには、イギリスは王室に対する議論をちゃんと取り上げるかもしれません。

( 国際交流員:CIR エレン・ミッチェル)
※CIRニュース2015.6より抜粋

© Press Association


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