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HICE NEWS

2015年4月号よりHICE NEWSが全面フルカラーへと一新しました。日本語にルビをふり、部分的に英語とポルトガル語を併記しています。 英語、ポルトガル語の詳しい情報についてはホームページ、Facebookなどをさらに充実させていきますので、そちらをご利用ください。 年2回(9月と3月)はトピックスなども盛り込んだ特集号を発行しますのでお楽しみに!

HICE NEWS

バックナンバー

HICE NEWS (2017.10)

HICE35周年を振り返る⑤
1992年(平成4年) ブラジル・フェスタ・ハママツ

現在、HICE設立35周年記念事業の準備を行っています。 今回は、1992年2月末に行われたブラジル・フェスタ・ハママツについてご紹介します。

 1991年11月末の外国人登録者は、10,881人で、そのうちブラジル人は5,713人でした。 その5年前にはわずか10人だったブラジル人が1990年の入管法改正で急増しているのがわかります。 フェスタは、外国人に浜松での生活を楽しんでもらい、日本人市民との交流を図るために企画されましたが、開催の背景には、ゴミの出し方や無断駐車などで日本人市民と外国人の摩擦が目立ち始めているからと、フェスタを紹介した当時の新聞記事にありました。 また、同記事には、浜松市では日本語教室なども開催しているが、あまりの急増に対応が追いつかず、外国人への対応の充実を求める国あての意見書を準備したともあります。 多くの外国人が仕事を求めて来日し始めた頃に開かれたこのフェスタ。 交流をきっかけに相互理解を深めようという当時のHICE事務局の意気込みが伝わります。
 フェスタは、ブラジル本国のカーニバルの時期に合わせて開催され、目玉コーナーは、電話会社などの協力による静止画像の国際カラーテレビ電話無料開放でした。 携帯電話がまだ普及していないこの頃、週末になると、テレホンカードを使って国際通話ができる公衆電話に外国人が長蛇の列をなしていることを、別の新聞記事が伝えています。 フェスタでは、事前に応募した7人がテレビ電話で祖国と交信し、家族の顔がテレビ画面に映し出されると泣き崩れる女性もいたそうです。 今では、スマートフォンやPCで動画での通話も簡単にできますが、当時の状況を考えると貴重な機会だったことがわかります。

 時代は変わり、在住外国人のニーズも変化してきましたが、ニーズを捉えて事業を展開していく機動性は常に大切にしたいものです。

HICE NEWS (2017.08)

HICE35周年を振り返る③ HICE NEWSのあゆみ!

現在、HICE設立35周年記念事業の準備を行っています。 今回は、HICE NEWSのあゆみについて紹介します。

 記念すべきHICE NEWS第1号は、昭和58年3月28日に発行されました。 昭和57年12月17日の設立総会の様子や協会規約などが掲載される中、現在も使われているシンボルマークの公募審査結果もありました。 63点もの中から選ばれたシンボルマークは、地球グリーン)と無限の交流を意味する握手(ブルー)を組み合わせたものになりました。 今回の35周年記念誌作成をきっかけに、ぜひ作者の尾藤さんにお話を伺いたいものです。

 HICE NEWSから約1年半後に、「はいすつうしん」という情報誌も発行されるようになりました。 HICE NEWSが外国人へのインタビューや市民からの交流記事の掲載が中心の季刊発行で、「はいすつうしん」は毎月のイベントや講座のお知らせが中心の月刊での発行だったようです。「 はいすつうしん」第2号(昭和59年11月16日)に、こんな話・あんな話というコラムがありました。 浜松市内の外国人の数に関する問合せがHICEに多いということで、当時の外国人登録者数が紹介されていました。 昭和59年10月末時点では、2,403人の登録者数があり、内訳は、韓国・朝鮮が1,988人、中国129人、フィリピン70人、アメリカ61人、ベトナム46人、インドネシア23人・・・と掲載されていました。 また、外国人宿泊客は年間2万人前後にもなり、そのほとんどがビジネス客で、地方都市としては、非常に多い数字だとのコメントもあります。 まさに、世界的な企業が存在する浜松市ならではの、当時のビジネスにおける国際化の始まりを感じました。 一方で、HICEは市民による草の根国際交流によって国際的な相互理解を深め、国際都市浜松を目指す窓口となりました。 現在は、内なる国際化からさらに進んで、多文化共生都市浜松を推進しています。

HICE NEWS (2017.07)

HICE35周年を振り返る②(2008年)

現在、HICE設立35周年記念事業の準備を行っています。 今回は、HICEに保存されている過去のHICE NEWSや資料から、2008年当時の日系ブラジル人と浜松、HICEのつながりについて紹介します。
 2008年は皆さんにとってどのような年でしたか? 2008年は、浜松市における外国人登録者数が33,682人(2008.10)と史上最多となり、浜松市のブラジル人の数が、いつ20,000人を越えるかと注目を集めた年でした。 また、日伯交流100周年の記念の年でもあったため、国内で様々なイベントが行われていました。 浜松でも、浜松まつりでの日伯交流年記念凧揚げや、ブラジル人らによる移民を描いた演劇会、移民パネル写真展、ブラジルについてのセミナーなど、毎週といっても良いほど、市内のあちこちでイベントが開かれていました。 HICEでも、8月に横浜にある海外移住資料館へバスツアーを行い、ブラジルを始めとする8カ国42名の参加者らと交流を深めました。 2008年度に作成された「はままつ多文化共生教材※」には日伯交流100周年事業や海外移住資料館の様子も掲載されています。
 もう一つ、この年で忘れられない出来事が、アメリカの金融危機に端を発した世界同時不況です。 秋以降、浜松でも景気後退の影響を受け、特に派遣という形態で雇用されていた多くの外国人が職を失いました。 外国人市民が安心して生活できるよう様々な支援対策がなされる中、ハローワーク、労働基準監督署、浜松市との連携で、多文化共生センターに外国人のためのワンストップ相談コーナーが開設されました。 また、求職中の外国人に対する日本語教室も国の委託事業として開催され、申込者が殺到したのを今でも鮮明に覚えています。
 2008年の秋までは交流を祝うお祭りムード一色だったのが、突然状況が一変「多文化共生」という言葉の裏にある厳しい現実を突きつけられ、意識の変化を求められる年となりました。


※「はままつ多文化共生教材~考えよう! ともに生きる浜松の未来~」はHICE HPよりダウンロードできます。

HICE NEWS (2017.06)

新聞記事からHICE35周年を振り返る①(1985年)

現在、HICE設立35周年記念事業の準備として、HICEに保存してある過去の新聞記事を読み直しています。 今回は、その中から、1985年3月4日の記事をご紹介いたします。

 浜松に定住するベトナム難民二組の結婚披露宴が三日、浜松市鍛冶町の西武浜松店、シティ8で行われた。 二日から四日まで開かれている「国際交流フェア’85」の”国際村芸能祭”の行事の一つで、約二百人の市民、ベトナム人らが祝福に駆けつけた。 民族衣装などで身を包んだ二組のカップルは熱い祝福に戸惑いながらも「最高に幸せです」とさわやかな笑顔を見せた。(静岡新聞、昭和60年(1985年)3月4日)
 
記事には二組のベトナム難民のカップルの写真が掲載されていて、そのうちの一人が静岡県ベトナム人協会会長の山田明(トラン・バン・ミン)さんです。 ミンさんには、2年前のグローバルフェアホールイベント「写真で語る私の歴史」で、ご自身の難民としての経験を語っていただいたことがあります。1981年に小船でベトナムを脱出したミンさんは、台風の荒波に流され3日間漂流し、5日目に奇跡的にイギリスのタンカー船に救助されたそうです。 発表で見せてくださったタンカー船での写真には安心した顔のミンさん達が写っていて、胸にぐっとくるものがあったのを覚えています。 ミンさんはその後、難民として日本に来られ、難民受入施設で日本語や日本文化を学んだ後、浜松で就職をしたそうです。
 浜松市は全国的にみてもベトナム人が多く住むまちです。 その多くは難民として来日された方々ですが、仕事が豊富にあり、温暖な気候で過ごしやすいだけでなく、難民を受入れる温かい市民の存在があったことが浜松に定住するきっかけとなったと、ミンさんはおっしゃっていました。 改めて今回、当時のHICEがその一助となっていたことにうれしく思います。
 ベトナム難民の当時の様子や30年以上に亘る日本での生活について、ミンさんにもっと詳しく話をお聞きし記念誌に掲載できればと思います。 お楽しみに!

HICE NEWS (2017.05)

【HICE設立35周年記念事業】第1回ミーティングを行いました!

先日、HICE設立35周年記念事業第1回全体ミーティングを行いました。
 最初に記念事業の趣旨説明を行い、今年がHICE設立35周年の記念年であること、それを祝して記念事業(記念誌作成と記念イベント)を行うこと、イベントは2月のグローバルフェアで行うことを確認しました。
 次に、グループごとにどんな記念誌にすれば良いかの話し合いを行いました。 初めに決めることとして、「誰に手にとってもらいたいか」「言語はどうするか」「内容はどうするか」「媒体形式はどうするか」等の冊子の大枠について話しました。
 話し合いでは、将来の浜松市を担う中学生~高校生に読んでもらいたい、HICEのことがまだまだ知られていないのでできるだけ多くの人に届けたい、これまでお世話になった関係団体の方々に手にとってもらいたい、HICEは外国人と共に歩んできたのだから外国人の方々にはぜひ読んでもらいたいなど様々な意見がでました。 将来を担う若い世代に多文化共生についてっと関心をもってもらいたいということから、学校で使う教材の位置づけになるような内容にしたらどうかという案もあがりました。
 また、記念誌の主要言語をどうしたらよいかということについても話し合いました。 多言語併記がよいのではないか、言語ごとにそれぞれ違う特集を作ったらどうか、やさしい日本語にしてさらに漢字にはふりがな付きがよいのではないか等、多言語・多文化
なスタッフが集まるHICEならではの意見が集まりました。 今後も対話を続けながらより良いものを作りたいと思います。 皆で、様々な意見を出し合った結果は完成した記念誌でご確認くださいね!

HICE NEWS (2017.04)

今年はHICE設立35周年記念Yearです! 

HICEは、1982年(昭和57年)12月17日に、草の根国際交流を目指した任意団体として設立されました。 また、国内の経済成長を背景に、当時進められていた姉妹都市交流だけではなく世界中の民族・文化と交流をし、それらを推進するために市民の知恵と力を結集させることも設立の目的として掲げられていました。
 設立時は、「国際社会に開かれた浜松づくり」を目標として、ずいぶん盛りだくさんのグローバルなふれあい事業が行われたようですが、いずれもボランティアの方々のご支援ご協力があったからこそと当時の記録に残っています。「 草の根」「ボランティア」「グローバル」「ふれあい」というキーワードが、当時から今まで変わりなくHICEに受け継がれているのがわかり感慨もひとしおです。
 さて、HICEは皆様のおかげをもちまして、今年、設立35周年を迎えることになりました。 このことを記念し、HICE設立35周年記念事業を行うのですが、そのうちの一つに記念誌作成事業があります。 記念誌といっても、HICEの事業を単に振り返る記録誌に留まることなく、外国人集住都市としての浜松市の変遷や、外国人住民と共に発展してきた浜松市ならではの特徴(経済、教育、ポップカルチャーなど)、外国人住民のライフヒストリーや、HICEを支えてくださったボランティアさんへのインタビューなど、1年をかけて取材や調査を行い、この1冊で浜松市の多文化共生のあゆみ
(過去~現在~未来)がわかるような内容にしたいと考えています。 内容は、毎月開催するスタッフ全員会議で検討していきます。
 今年度このコーナーでは、記念事業の進み具合や取材を通じてわかった貴重な情報等を随時ご報告します。 こんな内容を載せて! というアイデアや、取材や写真の貸与にご協力いただける方も募集していく予定です。

HICE NEWS (2017.03)

交通に関する法律と習慣 ~アメリカとの違い~

浜松で友達と一緒に道を歩いていたとき、車が交差点でUターンしてい
るのを見ました。 アメリカでは道路でUターンする事は珍しいので、日本で気づいた車に関するアメリカとの違いについて、今月の記事にしました。

 アメリカで運転する時に一番難しいこと、それは州や準州ごとに、交通法が異なり、郡や市によっても交通法が異なることです。 一番極端な例はおそらく、アメリカ領ヴァージン諸島の交通法で、アメリカで一般的である右側通行と違って、左側通行と決められていることです。 このほか、過去にモンタナ州では数値ではなく「妥当で慎重」という制限速度があったことや、ハワイ州の時速60マイル(97キロ)からテキサス州の一部で決められている時
速85マイル(137キロ)まで、州ごとに制限速度が大きく異なります。
特に、Uターンや赤信号での右折(日本では左折)等、あまり使われていない運転操作も地域により法律が異なることも多いので注意が必要です。
アメリカで13年運転してきて、道路でUターンをした回数は1~2回くらいで、他の人がUターンをすることを見たのもわずかですので、誰かがUターンをするとちょっとびっくりします。 アメリカ
では道路で反転する必要がないわけではなく、反転したいときは、Uターン以外の方法を選びます。 何故かというと、その方がもっと安全だからです。
Uターン自体が危険というより、アメリカでは珍しいから他の運転手がどういう風に反応するかわかりませんので、Uターンしないことが転ばぬ先の杖となります。 もう一つの理由はもちろん法律の違いです。 Uターンを認める標識看板がない限り、Uターンができないと判断した方が無難ということです。

 日本での交通に関する法律や習慣に慣れていないところがまだ多いので、どうしてこのように習慣が違うのか是非知りたいです。

(国際交流員:CIR スティーブン・サワディセービ)

HICE NEWS (2017.02)

ビアトリクス・ポター

イギリスの子ども向けの本は世界中で有名です。 人気の「ピーターラビット」をはじめとした多数の本を書いたのは、イギリスの作家、ビアトリクス・ポターでした。 典型的なイングランドの自然を描いていることがその話の魅力の一部で、昔から親しまれています。 2016年はポター生誕150周年でした。

 ポターは1866年にイギリスの裕福な家に生まれました。 よく家族旅行でスコットランドや湖水地方に出かけたことから、幼いころから自然が大好きでした。 ハリネズミやコウモリといった珍しいペットを含め小さな動物をたくさん飼い、細かく観察したり描いたりしていました。 当時の上流階級の例にもれず、家庭教師から教育を受けポターの青春時代は自然と勉強で満たされていました。

果を提出することはできませんでした。
 ポターの本は実は、元家庭教師の子どもに向けて書かれていた手紙として始まりました。 その手紙の一つを「ピーターラビット」という本にしてみました。 最初は自費で家族や友人のためだけに出版しましたが、やっと出版に賛同する会社を見つけ、1902年に「ピーターラビット」が出版され、すぐ大ヒットとなりました。 その後、ポターは20冊以上本を書きました。

 ポターは自分の農場を買い、1912年に結婚し、農作業と執筆を楽しみながら、幸せな田舎暮らしを一生続けました。 1943年に亡くなったとき、土地をすべてイギリスの環境保護団体ナショナル・トラストに寄付し、自然環境の保全と美しい景観や伝統的文化の保持に大きな貢献をしました。 今でも、農場はそのままの姿で保存されており、年に何千人もの観光客が訪れ、ポターの本は世界中で愛されています。

(国際交流員:CIR エレン・ミッチェル)
※CIRニュース 2016.2より抜粋

HICE NEWS (2016.12)

ヨーロッパのクリスマス

12月といえば、クリスマスですね! サンタが待ちどおしい子どもはたくさんいると思いますが、ヨーロッパではプレゼントを届けてくれる人は国によって違います。 世界で親しまれている「サンタ・クロース」はアメリカへ渡った移民たちがヨーロッパから持ち込んだ各国のクリスマスの伝統が融合したものです。
 イギリスにはファーザー・クリスマスがいます。 クリスマスに反対する声のあった時代にクリスマスを優しく楽しげなお爺さんに擬人化する事によって、クリスマスが続けるべき伝統であることを訴えたことにより定着しました。 ビクトリア時代(19世紀後半)以降は、子どもにプレゼントをあげる、現代の形になってきました。
 ロシアなどスラブ民族の国では、ジェド・モロース、訳して霜おじいさんがいます。 スネグーラチカ、雪の娘という名前の孫も付き添っています。 彼女の由来は違う民話にありますが、なぜかジェド・モロースの付き添いとして知られるようになりました。
 フィンランドでは、プレゼントを持ってくるのはヨウルプッキ、文字通りに訳すと「クリスマス・ヤギ」です。 スカンジナビアでは、何千年も前からクリスマスにお祝いされてきたのはヤギでした。段々現代のお爺さんの姿になりましたが、名前はそのまま残りました。
 アイスランドではプレゼントを持ってくるのはヨゥラスヴェイナル、13人のクリスマス少年たちです。 クリスマスの前、一日に一人ずつ訪れ、一年間の行いによって子どもにプレゼントか罰を与えます。 もともとはいたずらっ子で、例えば、扉をうるさく閉める者、ソーセージを盗む者などの名前がついています。
 ヨーロッパでプレゼントを持ってくる者の原点となったのは実在したニコラス聖人で、人助けをしていた逸話があります。 おもしろいのは彼には悪い子に罰を与える「悪い」付き添いが各国にいることです。
 オーストリアでは、獣のクランプスが罰を担当する付き添いです。 同様に、ドイツではクネヒト・ループレヒト、フランスではペール・フッターが、悪い子に石炭を与えるか、子どもを持ち去るか、または鞭を打ちます。
 クリスマスの伝説はこれ以上にもっと多くあります。 ただ、多くの伝説の中で共通点が一つあります。 良い行いをすれば、報われるという事です。 皆様、今年はどうでしたか?最後に、私たちからも、メリークリスマス!

(国際交流員:CIR エレン・ミッチェル)

HICE NEWS (2016.11)

危険? でもやっぱり超お得! ブラックフライデー

ブラックフライデーは11月の第4木曜日の感謝祭の翌日にやってくるクリスマスシーズン最初の大売り出しをする日です。 小売店が年初めから赤字営業を続けても、その日になってようやく繁盛し黒字になるということから、ブラック(黒)フライデー(金曜日)という名前になったと一般的に言われていますが、実際に名前をつけたのは1960年代のフィラデルフィアの警察で、その理由はその時にとてもひどい交通渋滞があったからです。
赤字から黒字へという説は1980年代に、その日をもっとポジティブなイメージにするため、小売店が新しく作ったものです。
 ブラックフライデーはアメリカで最大の繁忙日です。
なぜかというと、クリスマスのショッピングシーズンの始まりで、しかも大型店の多くが「ドアバスター」という超特価商品を販売するからです。 ドアバスターは格安のディスカウント商品で、大変人気があり、数が非常に限られています。そのため、ドアバスターを手に入れる戦いには危険が伴います。
残念ながら、ブラックフライデーには、ドアバスターを買うための競い合いにより、殴られたり、催涙スプレーで攻撃されたり、踏み潰されたり、極端な場合は銃で撃たれるなど、色々な方法で怪我をする負傷者が出ることがあります。 このように書くと恐ろしい日のように思われるかもしれませんが、怪我人や死者が出る程の事件は稀なことですので、ご安心ください。
開店後しばらく待てば、心配なく買い物ができます。 無理してドアバスター商品を手に入れなくても、他の商品はまだセール中ですし、人ごみがなくなってからの方が安全です。
 ブラックフライデーは安いものがたくさん買える大きな買い物のチャンスです。 けれども、ブラックフライデーの日は、ドアバスターがあって危険を伴います。 しばらく待ってから買い物に行くことをお薦めします。 これさえ覚えておけば、その日のショッピングは問題なく、安心して楽しめますよ!

(国際交流員:CIR スティーブン・サワディセービ)

HICE NEWS (2016.10)

イギリスの森

 私の一番好きな季節、秋がまためぐってきました。 この時期になると、イギリスの秋を思い出
します。 家族でよく散歩に出かけた家の近くの森は、この時期が特にきれいです。 森はイギリスの田舎の最も重要で独特な生態系の一つです。
 イギリス諸島は大昔、ほとんどが森林に覆われていました。 約6千年前に農業が導入されてから、景色が大きく変わりました。 人口が増えるにつれて、農業に必要な土地が増え、数千年をかけて、森林は諸島のわずか10%となりました。
 少ないながらも森林が残ったのは、経済活動に役立つからでした。 農業に向いていない地域では、時にはたきぎや建築材料に、時には豚などの家畜や狩猟用の鹿がエサを食べるところとして利用されました。 こういった活動がイギリスの森林を独特な森にしたのです。
 材木を取るために用いられた森林管理方法は萌芽更新
(※)でした。 この方法では、木を成長させ、そして枝を切り落とす過程を繰り返します。 イギリスのもっとも象徴的な野生生物のいくつか(ハリネズミやヨーロッパコマドリなど)がこういった森林によって生かされているのです。
 しかし、この伝統的な方法が産業革命でほとんど終わりを迎えました。 新しい開発のために大規模な森林破壊が行われたり、人々が森林を放置し都会へ出て行ったりしました。 新しい木も植えたものの、これらはほとんど野生生物が暮らせない外来種の木だったため、昔の森林はほぼ破壊されてしまいました。 残った森林でも、新しく導入された外来種によって在来種が駆逐されてしまいました。
萌芽更新の管理を続ける人もいないことから、光が十分入らない生い茂った森林では野生生物が生存できませんでした。
 しかし、イギリスの未来が真っ暗だというわけではありません。 人々は徐々に森林の大切さや独特さに気づき、現在では積極的に保護や復活に取り組んでいます。 わたしの実家の近くの森も実はその例の一つで、鳥の保護を行う慈善団体が所有する自然保護区です。 またいつか、秋にこの森を散歩できたらと思います。

(国際交流員:CIR エレン・ミッチェル)

(※)樹木を伐採し、その切り株や木の根元から枝を延ばして樹木を育成すること。

HICE NEWS (2016.09)

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